世界と奇跡と彼と


 鞄を持って、鍵を掛けて、誰もいない家を後にします。時刻はお昼前、日も高くなってきた時間帯。一軒家に暮らす私以外の家族は、もうみんな出掛けてしまいました。バス停まで、てくてく歩きます。平日の昼間、住宅地、静かなものです。大きな音を立てて走って来たバスに、人はまばらで、座れるのはありがたいこと。座席の空白と一緒に、時刻表の空白も増えるのは、悩みの種ですが。
 揺れて、揺れて、がたんごとん。バスと、電車と、電車を乗り継いで、辿り着いた駅。更に十五分、てくてくと、歩きます。日差しが眩しいけれども、日傘は忘れてきてしまいました。晴雨兼用の折り畳み傘。雨が降ったら、もっと困ります。雲は遠い。
 長い坂、のぼり疲れた頃に、ようやく見えた大きな建物。腕時計を確認、あと十五分。暑い中待つのは嫌です。そっと建物に避難。教室は、どこだったか。四階、長い階段、これだけの運動で息切れしてしまうと、さすがに情けなさを感じます。何年も前から、感じていますが。
 辿り着いた教室の、後ろから三番目の席に着いて、ノートを開きました。罫線なんてない、お絵かき用のノート。隣に置いたのは教科書とプリントの束、それから手前に筆箱。こんなもの、意味なんてない気はしていますが、それでも、形だけ。先生は優しいから、見えていても、見えていないふりをしてくれます。多分、きっと、そうなのです。私はそれに甘えます。
 先生が来るまでの間に、ノートいっぱいにたくさん描いて、先生が来たタイミングでノートをめくり、白紙のページにもっと描いて。教科書とプリントには、たまに目を落として。めくったノートに、更にシャーペンを走らせて。今日も充実した時間を過ごせました。アンケートの評価はもちろん二重丸です。先生が荷物をまとめ始めました。私も、ノートをしまって、教科書をしまって、プリントも筆箱もしまいます。
 そろそろ帰りましょう。立ち上がった時、机の上に猫がいることに気づきました。鉛筆で描かれた、シンプルな猫。きょとんとした、縦長の目でこちらを見つめてくる猫。彼は、ゆっくりと、めくれました。机から、ひとりでに、べろんと、起き上がりました。音は立てずに、静かに、無音で、けれどもべろんという効果音が、とても似合いそうで。立ち上がった彼は、私の鞄に貼りつきました。ぺたり、という音は、やはりしませんでした。
 静かに貼りついた猫とともに、私は帰路につきます。来た道を、そのまま、辿っていきます。お小遣い日は明日ですから、寄り道はしません。今日の晩御飯はなんでしょう。鍵のかかっていない、玄関を開けました。

 

「おはよう」

 

 鞄を肩にかけ、ドアを開けると、雨が降っていました。静かに、しとしとと降っています。お気に入りの傘を、ここぞとばかりに開いて、一歩前へ。これぐらいなら、鞄が濡れる心配もないでしょう。雨は好きです。心も気持ちも溶けるから。雨は嫌いです。荷物が濡れてしまうから。
 鍵を掛けて、バス停に向かっててくてくと。小さな水たまりを、避けずに歩きます。じっとりと濡れるスニーカー。けれど、これでいいんです。新品のスニーカーより、汚れたスニーカーが好きです。バスを待つ間にも、濡れて行くスニーカー。バス停の側にも、ちょうど水たまりがあったから。
 雨の日は、やっぱりバスが遅れてしまいます。駅に着いたバスから降りて、走って、改札を通り抜けて、走って、階段を駆け上がって、電車へ。息切れするのは、やっぱり情けない。動き出した電車の中は、それなりの混雑。座ることなんて諦めて、ドアに寄りかかります。こっちの方が、外がよく見える、なんて、椅子取りゲームを放棄した言い訳を、考えてみました。雨の音は、心に似ている。
 階段を、下りて、上って、乗り換えます。二両編成の電車、席はあまり埋まっていません。放棄したはずのゲームを再開しました。本番は、これからです。揺られて、揺られて、三駅目。定期を見せて、傘を開きました。いつの間にか強くなっていた雨は、自慢の傘に当たって、ぱたぱたと、ぼたぼたと。足元の音と混じって、全部、溶けてしまいそうです。
 雨に、世界に、混じりながら、息切れしそうな坂をのぼって、建物はようやく姿を現しました。腕時計の長針が示すのは、授業開始の十五分前。階段を憂鬱に思いながら、四階建ての建物の、四階の教室に向かいます。
 きゅっきゅっと、水の音を立てながら、向かった教室。座る席は後ろから四番目。もうだいぶ埋まってしまった教室で、ノートを開きます。このノートに、罫線なんていりません。教科書と、プリントの束と、筆箱に囲まれた、お絵かき用のノート。今日は何を描きましょう。適当に、目を描いて、髪を描いて、帽子を描いた魔法使い。使い魔も必要です。耳と、輪郭と、目と、口と、髯と、身体。小さな猫は、縦長の目できょとんとしています。
 彼はべろんとめくれました。魔法使いは私になりました。授業なんて、受ける必要はありません。一人と一匹は空を飛びました。綺麗な夕焼けを眺めて、街を魔法で溢れさせるのです。キラキラ、キラキラ、誰もが見とれる、夢がありました。
魔法使いの魔法と、星の瞬きが混じり合う頃、家の前に降り立ちました。今日の晩御飯はなんでしょう。玄関を開けました。

 

「おやすみ」

 

 玄関のドアなんて、もう開ける必要はありません。鞄もお財布も、携帯だっていりません。私は世界です、世界は私です。青い空から、零れ落ちるように、全てを見渡していました。

 *

 少女は夢を見ていました。どうしようもなく、夢を見ていたのです。一週間前か、一ヶ月前か、三か月前か、いつだったでしょう。少女の飼い猫は、車に轢かれて死にました。それを目撃した彼女のパソコンには、不採用通知が届いていました。彼女は眠ることにしました。
朝になったら、起きなければなりません。生きたくなくても、死にたくなくても、現実はそこにあります。少女は、夢を見ることにしました。平和な日を、当たり前に過ごしていました。なぜならそこは、夢の中だからです。彼女の願いは、いとも簡単に叶いました。世界は滑らかに溶けていき、滑り落ち、流れ込み。彼女は世界でした。

「そこの居心地はどう?」
 ある日、一人の少年は尋ねました。少女の夢の中で、眩しいぐらいの、暑いぐらいの、真っ青な空を見上げて言いました。
「どうしてあなたがいるの?」
 少女は、質問で返しました。彼は少女の幼馴染であり、初恋の人であり、今は遠くに行ってしまったはずの人でした。
「君を追いかけて来たからだよ」
 少年は答えました。夢の中の、ぼんやりとした彼の姿は、少しずつ鮮明になっていきます。
「私をどうしたいの?」
 雲一つなかったはずの青空に、どこから現れたのか、ぼんやりと雲が浮かびだしました。
「君を起こしたいよ」
 はっきりと答える、少年の言葉に、迷いはありませんでした。
「私は生きたくも死にたくもないの」
「知ってる」
 雲は次第に増えていきました。秋の空よりも、あっという間に、姿を変えてしまいます。
「私は大人になれない、どうすればいいかわからない」
「知ってる」
 大きくなっていく黒い雲からは、今にも雫が零れ落ちてきそうです。少年の手に、傘などありません。
「私は怖い、もう一歩も踏み出したくない、ずっとここにいたい」
「知ってる」
 ぽつり、ぽとり。冷たい雫が、少年の頬に当たりました。一滴、二滴、三滴。あっという間に、雨音の大合唱が始まりました。
「……じゃあ、帰って」
「それは嫌だ」
 雨に打たれながら、少年は答えました。
「知ってる、って言ったけど、君の心も、気持ちも、なにもかも、僕にはわからない」
「酷い」
 雨脚が弱まる気配はありません。近くの川は、轟々と唸りだしました。
「君だって、本当は、僕のことも、世界のことも、ほとんどわからない、ほんのひと欠片しか知らない」
「それで?」
 少年は、服も体も靴も時計も、すっかりびしょ濡れになっていました。
「この世界には、君の記憶しかない。だからこの世界は、あまりに狭くて小さくて、いつか、飽きてしまう」
「でも、私は傷つかない」
 うるさいぐらいの勢いで降り続ける雨は、氷のように冷たくもありました。それでも少年は、暗い空を見上げていました。
「傷つくなら、僕が守る。君が大人になれなくても、広い世界に、僕がいよう」
「そんなこと、幻想ね」
 黒い雲は、絶やすまいと言わんばかりに雨を降らせ続けます。
「僕は君に会いに来れた。君は願いを叶え続けた。どんな奇跡だって、二人なら、起こせるよ」
「……」
 雨は、嘘のように弱まっていき、あっという間に止んでしまいました。
「あの時みたいに、教えてくれるの?」
「もちろん」
 晴れ渡った空の下、その世界には誰もいませんでした。

 *

 むかしむかし、まだ私が、小学生だった頃。田舎に住んでいた私は、庭みたいなものだと思っていた森で、不覚にも道に迷っていました。あっちに行っても、こっちに行っても、出られない。冷たい雨の中、歩き続けた私を見つけたのは、彼でした。同い年の、幼馴染で、彼だって子どもだと言うのに、彼は私を森の外に出してくれました。どんな奇跡だって、起こせる、そんな、かっこつけた言葉を言いながら、本当に、奇跡を起こしてくれたのです。
 けれども、今の彼は、奇跡なんて起こしてくれません。嘘吐きでもありません。結局のところ私は、最後まで、記憶に縋っていたのです。

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