Water


 ある雨の日のことでした。
 住宅街のやや狭い道を、一人の高校生が歩いていました。黒い学ラン、重たそうな鞄と、青い傘。どうやら、学校から帰っている途中のようです。彼が歩くたび、足元の水溜りがぴしゃぴしゃと音をたてます。
 雨はだんだんと強くなり、彼のさしている傘も、しだいに意味を持たなくなっていきました。小さかった水溜りは少しずつ広がり、近くを流れる川は轟々と音を立てています。辺り一帯の音を水が占めていました。
「……」
 ふいに声が聞こえたような気がして、彼は立ち止りました。しかし、この騒がしい雨音の中です。聞き間違いだったのかもしれません。気になりつつも、彼は再び歩き始めました。
「……テ」
 もう一度、誰かの声が聞こえたような気がしました。さっきよりも、ややはっきりとした声です。聞き間違いではなかったのかもしれません。ですがその声は、どことなく不気味な雰囲気を持っていました。彼は、雨音がそう聞こえただけだと思い込んで、無視することにしました。
「……ケテ」
 再び聞こえた声は、さっきよりも更に、聞き取れる音が多くなっていました。雨の大合唱に紛れながらも、その声は確かに空気を震わせ、彼の耳に届いていました。それでも彼は、無視を決め込みました。自分に話しかけているとも限りません。
「タ…ケテ」
 徐々に大きくなり、形を成してきたその声は、どうやら幼い子どもが発しているように思われます。高くてか弱く、やや舌足らずな声。またそれは、いくつも重なっていき、一人の声ではないように思われました。重なる声は数を増していき、声の出所も次第に近づいているかのように、はっきりと聞き取れる声へ変わっていきます。自然と、彼の足は速まりました。しかし、近づいてくる気配は消えません。それどころか、他の水溜りからも、ぴしゃぴしゃと音が聞こえてきます。
「タスケテ!」
 大きな雨音の中ではっきりと聞こえたその声に、彼は思わず振り向いてしまいました。

 次の日、住宅街のやや狭い道の真ん中に、開いたままの青い傘が落ちていたそうです。

 *

 築二十年ほどの少し古いアパートに、大学を卒業して就職したばかりの若い女性が住んでいました。彼女は小さな保育園で働いており、その日もだいぶ遅い時間に帰ってきた彼女は、買ってきた夕食を食べ、シャワーを浴びるとすぐにベッドに向かいました。しかし、明かりを消してもう寝ようというところで歯磨きをしていないことを思い出した彼女は、慌てて洗面所に向かいました。彼女は歯医者が嫌いで、とりわけ治療の時の水音が大嫌いなのです。
 十五分かけて丁寧に歯を磨いたあと、彼女はコップに水を汲み、口の中をゆすごうとしました。ところが、彼女はまだ水を口に含んでいないというのに、コップの水からはうがいをしているかのような、ゴロゴロという音が微かに聞こえてきました。不審に思った彼女はコップの中の水を見つめ、耳を澄ましましたが、音はもう聞こえません。空耳だったのかもしれません。ですが、気味が悪いと思った彼女は、コップの水を一度捨てて新たに汲みなおしました。すると、再び音が聞こえてきます。先程と同じように、ゴロゴロ、ゴボゴボと聞こえますが、よく聞いていると人が溺れているような音にも聞こえます。不規則に乱れ始めた小さな音は、更に小さくなり、やがて聞こえなくなりました。怖くなった彼女はもう一度水を捨て、しかし口の中をゆすがないままでいるわけにもいかないので、再び水を汲もうと蛇口をひねりました。
 ところが、慌てたせいか彼女は蛇口を全開まで捻ってしまい、そのうえ、戻そうとした彼女の手はなぜか動きませんでした。蛇口を掴んだまま、右にも左にも捻れないどころか、手を離すことすらできません。寝てもいないのに、彼女は金縛りに遭ってしまったのです。一方、洗面台の方では、何かの拍子に栓が閉まってしまったようで、水がだんだんと溜まっていきます。そう大きくはない洗面台の中で、水面は着実に上がっていました。もちろん、排水口はありますから、栓が閉まったままであってもそのまま水が溢れ出るここはありません。ですが、恐怖で我を忘れた彼女は、助けを呼ぶべく声を出そうとしました。声を出そうと、何度も口をぱくぱくと動かし、息を吸い込み、吐いて。ようやく声が出たと思ったその瞬間。彼女は前に倒れてしまい、顔は洗面台へ飛び込んでしまいました。

 その日以来、彼女に会った人はいないそうです。

 *

 ある夏の日のことでした。
 地元では定番の海水浴場に、中学生の少女が遊びに来ていました。砂浜で遊ぶ親子連れや、波打ち際を走り回る若いカップル、日光浴をする老婦人など、老若男女が思い思いの時間を過ごす浜辺で、彼女は泳ぐことを楽しんでいました。学校のプールや市民プールにはもう飽きてしまっていたのです。区切られた中を端から端へ、彼女は泳ぎ回っていました。
 ところで彼女は、こうして泳ぐことだけでなく、海の色も好きでした。青だけでもたくさんの青があるというのに、もっと違う色にも様々に変化する海が見たくて、時には朝早くから日が沈む時間まで、ずっと海辺にいることもありました。海の持つ大きな魅力に、彼女は惹かれていたのです。
 そんな理由があってか、その日も彼女は、泳いでいる途中に急に立ち止まって、しばらくぼんやりしていたかと思えば再び泳ぎ出す、そんな泳ぎ方をしていました。立ち止まって、揺れる水面を、次々に変化していく海の色を、じっと見つめていたのです。時にゆったりと、時に激しく動きながら、太陽に照らされる壮大な青を、ただただじっと見つめていました。彼女にとって、それは大好きな時間でした。
 ところが、その日はいつもと違うなにかもその目に映っていました。見なれない、よくわからないなにかです。青色の向こうで不規則に揺れているそれは、じっと見ていると手のようにも思われてきます。魚でも海藻でもタコの足でもなく、人間の手です。しかし、見えるのは手と腕ばかりで、他の部分はまるで見えません。少なくとも、生きている人間というわけではないのでしょう。彼女は、幻覚だと思って無視をすることにしました。ひょっとしたらバラバラにされた遺体ということもありえるのかもしれませんが、彼女はそんなことを考えるより、海を見つめていたかったのです。沖合近くにいる彼女の周りには誰もいませんでしたが、そんな状況も、彼女を恐怖させることはありませんでした。むしろ、静かに海を眺められる好条件、彼女はそうとらえていたのです。
 揺れる波の奥で、不気味な手の数は次第に増えていき、手招きするように動くもの現れました。それでも、彼女は無視を続け、海だけを見つめていました。青白いその手は彼女の足を掴もうとしているようにも見えましたが、彼女の目に映るのは、深い海の青だけでした。
 あきらめたように手が消えていったころ、彼女はようやく浜辺に戻りました。

 彼女は明日も、海に出かけるそうです。


高校時代に、ホラーを目指して書いた話を手直し。
怖い、ってなんだろう。
私は家○の医学とかが怖くて見れません。


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