ジプソフィラ


「砲兵隊、曲射にて仰角を調整せよ」
「全軍待機。軍旗を乱すな」
「有効射程距離まで前進せよ」
 数百年ほど前、とある国々の間で激しい戦争が起きていた。戦場では銃弾が飛び交い、重騎兵による突撃が行われていた。硝煙も消える気配はない。そんな中、他の兵に混じって一人おろおろしている者がいた。銃を持つ手つきすらあやうく、とても正規の兵とは思えない。傭兵などということもまずないだろう。
「こ、これ以上近づくんじゃねえ!」

 *

 辺り一帯に畑が広がる農村部の一角で、かすみ草を育てている農家があった。それは商品作物として育てているわけではなく、他の作物を栽培する傍ら、ほんの少しだけ植えていた。彼らの家では遠い昔の御先祖様の頃より、かすみ草は清らかな心を象徴する花として大切にされてきたのである。実際、この家に生まれる子はみな清らかな心を持っているらしく、かすみ草の側で無邪気に笑っている少女も清く美しい心を持っていた。
 そんな農家の側を、ある日一人の貴族の男が通りがかった。彼は、国内でも一二を争うほどの権力者なのだが、花が大好きでこのように自ら農村に赴いて美しい花を探すこともしばしばだそうだ。
「この花は、なんという名前の花ですか?」
 農家の片隅で静かに咲いているかすみ草が目にとまったのか、貴族の男は農家の主人に尋ねた。
「かすみ草っていってな、先祖代々育ててきた花なんだ」
 農家の主人が答える声は、久しぶりの客人がうれしいのか弾んでいる。
「かすみ草、というのですか。そちらの娘さんのように、清らかな花ですね」
 真っ白なその花をすっかり気に入った貴族の男は、それ以来頻繁に農家を訪れるようになった。農家の主人や奥さんともそのたびに会話を交わし、いつしか彼と農家の主人は、貴族と農民であるにもかかわらず親しい友人となっていた。

 春の中頃のある日、農村では農民たちがみな畑仕事に精をだしていた。野菜の畑では、植えられたばかりの種が芽を出そうとしている。
「こんにちは、かすみ草の方。農作は順調ですか?」
 暖かな日差しが降り注ぐ中、彼はいつものように何の前触れもなく農村にやって来た。
「ああ、今年は天候もいいし、うまくいってるよ」
 そう答えながら、農家の主人は畑を耕す手を休めた。燕麦の畑の隣では、冬を越したかすみ草が初夏を待っている。
「そうですか……実は、残念なお知らせがあるんです」
「残念なお知らせ?」
 普段はにこにこと笑いながら話す貴族の男が、珍しく真剣な顔になっていた。それに気づいたのか、農家の主人も戸惑っている。
「もうすぐ、大規模な戦争が始まりそうなことは知っているでしょうか? 遅くとも来月中には農村部まで知れ渡ると思うのですが……この辺り一帯も、戦場になる可能性があるんです」
「なっ……ほ、本当か?」
「本当、です。この農村の位置は、戦略上重要な拠点となる可能性が十分にあるんです」
 日差しはいつの間にか、陰りを見せていた。

 戦争の発端は隣国の王位継承問題だったが、それをきっかけにもともと悪かった各国の関係が悪化し大規模な戦乱となったのは、必然だったのかもしれない。貴族として戦争の方針を決める会議に参加しながら、彼はそう考えていた。
 この国の王は、西の国の先王が亡くなった際に王女が王位を継ぐことを認め、味方する意思を示していたが、西の国とこの国の両方に接するもう一つの国の王は違った。北にあるその国の王は、貧しい自国の土地柄を嘆き、豊かな西の国の土地を狙っていたのである。戦争の口実ができたと言わんばかりに西の国の王位継承に異を唱え、北の国は出兵の用意を始めた。それに対して、領土拡大を狙う大国の多くも戦争に加わって行き、小国であるこの国は危機的状況に陥っていた。
 隣接する大国との同盟があるとはいえ、もともと軍備が整っているとは言い難いこの国が、富国強兵を進めている北の国の攻撃を耐えきるのは至難の業である。もちろん、北の国はこの国よりも西の国を優先して攻撃するだろうが、それでも領土の一部を奪われるぐらいの覚悟はしなければならない状況であった。
 会議は北の国がまずどこを攻めてくるかという話になり、地理的にその可能性が最も高いと考えられたのが、例の農家のある農村であった。貴族の男は、農村を戦場にしない手を必死に考えたが、その一帯を犠牲にして国の大部分を守るというのが大半の意見であり、一般的な考え方だった。さまざまな条件を考慮した結果、谷にあるその村で防衛を行うことこそが、この国にとっての最善策だったのである。

 貴族の男が村に来てから一週間後、国の軍隊が村に到着し、本格的に防衛の準備が始まった。農民たちは徐々に他の町に避難していき、そこでの生活は国によって保護された。だが、農村自体が戦場となる以上、彼らの畑はあきらめるより他なかった。
 長らくこの村で過ごしてきた農民の多くは、ともに過ごしてきた土地を失うことに始めこそ強く抵抗したが、次第にあきらめ土地を捨てることを選んだ。どれだけ土地が大切であろうと、自分の命はそれ以上に大切だったからだ。
 そして、春が終わり夏の訪れが感じられるようになった頃、いよいよ村でも戦いが始まろうとしていた。
「本当に、避難しなくていいんですか?」
 貴族の男は、もう何度目かわからない問いを繰り返した。
「俺は、このかすみ草を守らなきゃならん」
 その答えしか返ってこないことを、本当は彼もわかっていた。それでも、尋ねずにはいられなかったのである。
「このかすみ草は、ご先祖様がみんな大事にしてきた花だ。それに、俺の嫁も娘もこの花が大好きなんだ。あいつらの悲しむところを、俺は見たくねえ」
 農家の主人の側では、蕾をつけたかすみ草が咲く時を待っていた。
「そうなんですね……」
 遠くからは軍楽隊の演奏が聞こえ始めた。もう時間はほとんど残っていない。
「私はこれから山を越えて奇襲部隊の指揮をするので、ここで一旦お別れです。ただ、一つだけお願いしたいことがあるんです」
 彼は農家の主人を、真剣な眼差しで見つめなおした。
「私はかすみ草が大好きですが、それ以上にあなたはとても大切な存在なんです。そしてこれはきっと、あなたの奥さんや娘さんも同じだということを、忘れないでほしいんです」
 そう言った後、彼はいつものにこにことした笑顔に戻った。
「では、また会いましょう」

 戦争の流れを大きく左右するこの戦いは、熾烈を極めていた。前線では騎兵がぶつかりあい、銃撃戦が続いている。後方では大砲や擲弾による爆発で辺りが焼き払われ、平和だった村の面影は次第に消えつつあった。
 農家の主人は、始めは鎌や鋤を投げてかすみ草を守っていたが、それが尽きてしまったあとは負傷した兵が落とした銃を拾ってなんとか戦おうと試みた。だが、今まで武器に触れたことすらない農民が銃を扱えるはずもなく、迫りくる軍隊を相手にするのには絶望的な状況であった。
 それでも彼は決して逃げようとはせず、銃弾が髪を掠り、前方の重装甲歩兵も次々と倒れようと、怯えながらそこに立ち続けていた。
 やがて軍は混乱し、散開した。

 山から敵後方へ回り込み、本陣に奇襲を行うのは彼らにとって賭けだった。敵の数が圧倒的に多い以上、わずか十数名の部隊による奇襲であることがばれたらおしまいの作戦である。
 山を越えた彼らは、敵兵の隙を窺い、攻撃を開始した。投擲された手榴弾によって敵本陣が崩れていくが、これぐらいで混乱するような敵ではない。指揮官を務める彼は、近くの森に隠れながら狙いを定めていた。ただ一人、敵の司令官さえ倒せれば……そう思いながら、彼は引き金を引いた。

 かすみ草は、今日もそこに咲いている。


高校の文芸部で書いたお話。
「雲と赤」「砂漠の墓」と同じく、年に一度、テーマとかを決めて作る部誌で書きました。
このときは花がテーマで、自分が引いたのはタイトルや本文の通り「かすみ草」です。

時期的に多分「光の目」に夢中になってた頃に書いたと思うのですが、今読み返そうとすると冒頭の描写が恥ずかしくて、ほとんど読み返さずに載せてます。
載せないでもいいかなとは正直思いましたが、文芸部で最後に書いたお話でもあるはずなので、載せておこうかなぁ、と。


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